関西学院大学アメリカンフットボール部|創部80周年記念誌
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まず基本的なことをして、次にそれをアレンジしてやるんだけれど、1年目のコロナ初年度は、対戦相手に対する準備期間が少なかった。だからオフェンスは、過去にずっとやっていたプレーのおいしいところを取ってきて、ちょっと目先を変えて順番にやったわけ。相手も準備ができていないから、結構、成立しちゃうんだ。通っているものをもう1回と、5年前のを繰り返していたら、案外上手く行けた。ディフェンスも、元々はリードディフェンスをやったんだけれど、実際の秋のシーズンには使えないだろうと思って、そこをすっ飛ばした。初めからずっとブリッツやスタンスの練習から始め、結果的には正解だったような気がする。ただ、ファンダメンタルとか、基本的なスキーム、一番底辺のことを固め大村  大学に入るときは、結構京大にやられている時だった。ずっと土のグラウンドで、泥臭い練習ばかり大学生がやっているのを見ていて、泥臭いのも嫌いじゃなかったし、周りからも誘われるし、「よし、やるか」と思って入部した。有馬  そうなんですか。ファイターズは中に入ったら、意外と泥臭かったとよく人から聞くんですけど、泥臭いが前提だったんですね。大村  やはりみんな格好をつけたがる。でも格好はつけているけど、本当は泥臭い方へ行きたい願望がみんなある。自分は半強制的にそこに行った感じだけどね。有馬  確かにファイターズは、スマートというイメージが先行しているかもしれませんし、肉体的な泥臭さは減ったかもしれないですけど、でも、その部分を絶対経験していないと、ゲームで結果は出ないと思うんです。実際にファイターズに入ってからはどうでした。大村  1年の時は、3戦目からスターターで出してもらっていたんだけれど、まったく余裕がなかったよ。春はわちゃわちゃとやっていた上級生も、秋になってからは、初戦7対0とか、14対7とか、そんなレベルでやっていたから、ずっとムードが悪かった。とりあえず、必死にやらないといけないなぁという感じだった。堀口有馬  それでOLやってDLやって、最後はTEですね。大村  2年の時は、めちゃめちゃ練習をするわけ。絶対に勝たんといかんと言って。その時の京大は本当に強かった。だから、本当にしんどかった。しんどかったけれど結果が出て優勝した。3年の時は比較的京大のレベルが落ち、こちらは勝った時のメンバーも結構残っていたのでちょっとなめてしまった。戦力的には絶対勝てるしかなり差があったと過信して、そこまで自分らを追い込まず、結果負けてしまった。それで4年になって、やはり2年前が基準だなと、あのチームを超えようと、更にしんどい練習をやるという感じだった。それで奪還できた。有馬  今、振り返ってみると、勝った経験より負けた経験大村  負けたり、失敗したプレーの方がよく覚えているよね。勝っても、何でこのプレーがとなると面白くない。ただ、関学へコーチとして帰って来て、初めての甲子園で勝てたときは本当に嬉しかった。でもそれからは、拙いプレーとか上手くいっていないことがあると、正直そこまで喜べない。ずっと今まで…。有馬  それは結構、ファイターズの伝統というか、タッチダウンしても思い通りのプレーだったかどうか、みんなでちゃんと考えますよね。ることには、めちゃめちゃ不安な状態でやっていて、小手先で勝ちに行った感はある。ゲームを作るために。コーチにはよく面倒は見てもらっていたが、結果は6位に沈んでしまったなぁ。の方が大きかったと?122現役時代に描いていた、ファイターズ像について有馬  かなり昔の話になりますけど、大村監督ご自身がファイターズに入る前に抱いていたイメージとか、ファイターズ像はどんなものでしたか。

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