関西学院大学アメリカンフットボール部|創部80周年記念誌
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大村  卒業後3年間ぐらいは、関学でコーチをしていた。「一応、自分が4年の時の1年がでるまでは」と思って。その辺までは、自分たちの頃からやっていたフットボールのやり方をずっとやっている感じだった。その後、東京海上のコーチをやった頃には、当時、日本にプロコーチってあまりいなかった。鳥内さんに話を通して、出かけて行った。東京海上の選手っていろいろないい大学から来てるけど、フットボールの話をしても、こちらが知らないことがなかった。これは、関学で考えていることややってきたことが、ダントツ抜けているなと感じた。それでアメリカでコーチをやる野望を持ったわけ。当時、アメリカのことは何も知らないから、関学のコーチレベルでもやれるという、す有馬  転機はありましたか。大村  3年目の2011年、松岡主将のシーズンがひとつの転機だったと思う。あそこで負けていたら、多分チームごく安易な考えだった。実は、関学に帰ってくる前に、ハワイのコーチの知り合いがやっている、アメリカの大学でコーチをやる直前まで、話が行っていた。それはビザの関係で実現しなかったけれど、もし行っていたら関学には帰っていなかったと思う。有馬  そのほかにもいろいろな経験をされましたが、2009年にコーチとして関学に復帰された経緯は。大村  2008年の立命戦の試合の負け方を見て、以前にもすこし感じてはいたんだけれど、ゲームで起こるミスとか、ゲームの展開に、あれ?大丈夫かなと思った。当人たちは一生懸命やっているんだけれど…。そんな時に偶然、東京で小野コーチ(現ディレクター)と飲む機会があって、その席で「実は大村、こんな話があってな」から始まって、帰ってこないかという話になった。もし2008年のゲームを見ていなかったら、「帰ります」と言ってなかったかもしれない。は駄目になっていたかも知れない。あの年も結構しんどいことやった。だから、これで勝ったというのが大きかった。やっぱり、結果が出なかったら、学生は絶対文句を言うよ。あそこで勝って、これは間違っていない、しんどいことをやるのにも意味があると。本当に嬉しかった。123社会人チームのコーチ経験など、外部から見えたこと有馬  社会人になって選手やいろんなところでコーチをされましたが、外での経験というのは、やはり今に影響していますか。2009年にコーチとして復帰したファイターズの印象と取り組み大村  少しみんなマンネリ化していたかもね。例えばアジリティーといったら、ラストまでちゃんとやってたじゃない。それを適当にやって終わっていたり、スぺの時に学生が普通に座ってダべっているとか、こんな感じでやっていて、こんな楽でいいの?って。何も厳しいことだけがいいのではないが、やはり同じメンバーでずっとやっているからマンネリ感もあるのだろうって、再確認した。そんな中でコーチをスタートしたわけだから、初めの2年間は選手が可哀想だったと思う。感覚がかけ離れていたから、こっちの基準にはめようとする。俺の知っている関学はこうだったから、こうならないと駄目だ、みたいな勝手な固定概念もあるし、帰ってきたんだから、絶対チームを良くするって意気込む。ある意味強制になるよね。今までとの落差が大きくて、選手は一気にしんどくなってやばかった。試合前の練習をやり直させたこともあった。ギャップがあり過ぎたから、2年間の選手は大変だった。

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