――フットボールをするために関学へ進学したんですか 「関学に入ったらフットボールしようと決めていた。関学以外やったらサッカーしてた。親父もやってたし、浪人の時に関学アメリカンの試合を見に行ってて、すごいなと思ったのも覚えてる。涙の日生も見た。京大に逆転勝ちした伝説の試合な。甲子園ボウルも日大に勝った。そんな次の年やから強いかと思って入ったら、日大がえげつなくて。『こんなチームあるのん』ってびっくりしたわ」――日大は4年間ずっと圧倒的に強かったんですか 「もう、個人の能力がちゃうねん。足が速いし、体はでかいし。それで、どんくさいのおれへんかったわ。そんな選手を揃えたんやろな。それまでは関学がV5してたんや。せやから、関学に勝つためにやったんちゃうかな。俺自身はV5は見てないねん。サッカーに夢中やったからな。小さい時は甲子園ボウル行ってたけど、フットボールのことなんか分かれへんやん。当時、親父と外野席に行ったら、七輪で焼鳥を焼いてはったわ。それをもろて、食べながら見てたわ」――日大に4年間負けたのが指導者の原点 「甲子園で勝ったことないからな。あそこで勝たないと意味ないやん。後輩たちに勝たせてあげたい、甲子園で。せやから、アメリカに指導者の勉強にも行ったしな。あそこで勝ってたら、アメリカにも行かなかったかも分からんな。関学は甲子園ボウルは出ただけやったらあかん。負けたら意味ない。4年間で1回も勝てなかったのは大きかった」――学生時代の負けが指導者として生きたことは 「4年の甲子園ボウルな、唯一勝てるチャンスがあってん。日大も能力ある選手が卒業していって、俺らの同期は人数も少なかった。これはチャンスあるなって、どうにかできるかもしれへんって思っていた。実際、第4Qに俺のフィールドゴール(FG)で31-35になった。それで、ディフェンスが止めて、サヨナラ勝ちを狙ってた。でも、そのあとにDLの選手がアサイメントを1つ間違えてロングゲインされてタッチダウンされた。それで、そのまま負け。終わりや。せやから、監督なってからも学生には言うよ。1人のミスで終わることもあるねんでって。もう1回やり直しはないねん。終わってから『アイツのせいや』って言うても意味ないねん。だから、練習で言わなあかんねん。そういう話は、毎年新チームがスタートする時から年間通じて話しとかなあかんねん」13原点は日大に負けたこと 鳥内はフットボール一家で育った。父・昭人さんもFIGHTERSの監督。大阪・摂津高校でサッカーに明け暮れ、進学した関学大でアメリカンフットボール部へ。そこからFIGHTERSとの長い付き合いが始まる。現役時代は苦い思い出が残る。甲子園ボウルでライバルの日本大学PHOENIXに4年連続で負けた。その経験こそが、指導者を志した原点にある。
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