黎明日本フットボール創生時のコーチたち、左から3人目がジョージ・マーシャル氏、円内がポール・ラッシュ氏(1934年)初めて来日したアメリカ大学選抜チームは紅軍・青軍に分かれて戦った(1935年3月)この作品は神戸を代表する著名版画家、川西英氏が甲子園南運動場での試合を描いたものアメリカ選抜軍が来日、甲子園南運動場で行われた関西での初試合、東久邇宮殿下が迎えられた(1935年3月)(昭和9年-15年)130序 説日本アメリカンフットボールの夜明け わが国に初めてアメリカンフットボールを紹介したのは、「近代コーチの祖」と呼ばれる高名なスポーツ指導者である岡部平太氏とされている。1917(大正6)年、東京高等師範学校を卒業後、アメリカに留学しクラブチームでフットボールを経験。帰国後、わが国で最初とされるアメリカンフットボールの解説書を著している。 日本で最初の試合が行われたのは1934(昭和9)年11月29日、学生選抜軍と横浜外人チームの対戦で、会場は神宮外苑競技場であった。同年春から立教大のポール・ラッシュ、ジョージ・マーシャル両氏が早稲田大、明治大、立教大のアメリカ二世学生に呼びかけて合同練習を重ねていた。試合は約1万人の観衆を集め、会場にはスポーツの宮である秩父宮殿下が台臨され、グルー・アメリカ大使が開会の式辞を述べた。場内は派手な外人たちで溢れ、ジャズバンドによる演奏など華やかな彩りを添え、初めてフットボールを観戦した日本人たちを驚かせた。試合は日本学生選抜軍が26ー0で勝利し、歴史的な第一戦を飾った。同年12月1日、「東京学生アメリカンフットボール連盟」が発足している。 翌年3月には、アメリカ選抜軍が来日。一行は南カリフォルニア大学(SCU)を主力に、他5大学の有力選手を集めた豪華なメンバーであった。初めて行われた明治大とSCUの日米学生対抗戦は7ー71の一方的な展開で、本場チームとの実力差を思い知らされた。 1936年12月、今度は東京学生選抜が全日本チームとしてアメリカに遠征する。ローズボウルなどを観戦した後、ロスアンゼルスで南カリフォルニア州高校選抜と対戦し6ー19の敗北。本場の高校チームにすら歯が立たなかったのである。この二度にわたる日米交流の経験は、その後の日本フットボール界の発展に大きく寄与したといえよう。 1938年3月、第1回東西対抗戦が神宮で行われ、21ー0で関東の圧勝。西軍は関西大と神戸外人の混成チームであった。関東学生リーグでは、明治大、早稲田大、慶応大の三強が鼎立し、攻撃はシングルウイングが大勢を占め、守備も三段構えのマイナー・ディフェンスを採り入れるなど、複雑なプレーをこなせるようになっていた。 1940年9月、準戦時体制のもと、連盟は「アメリカンフットボール」を「鎧球」と改称。国策に沿った大学教育の体制改編が求められ、フットボール界にも影響を及ぼし始めたのである。
元のページ ../index.html#130