創始Chapter-1西宮球場で行われた関西学生鎧球連盟春季戦入場式、右列が関学、旗手は井床主将(1941年6月7日)学院中央芝生で行われた報国団結団式(1941年2月11日)創部2戦目となった西宮球場での対関西OB戦(1941年6月7日)(昭和16年-23年)132戦時色高まる中での関西学院鎧球倶楽部の創部 関西学院にアメリカンフットボール部が誕生したのは、軍国主義華やかしき頃の1941(昭和16)年2月11日である。この日、学院の学生会は解散され報国団に、運動部は鍛錬部に改組され、中央芝生で結成式が行われた。創部時の正式名称は、「関西学院報国団鍛錬部鎧球倶楽部班」、班長・松沢兼人、監督兼主務・川井和男、幹事長・井床国夫をはじめとした20人足らずのメンバーでのスタートであった。同年3月24日に関西鎧球連盟への加入が承認された。当時、関東では早稲田大、明治大、立教大、慶応大、法政大、日本大の6大学、関西では関西大、同志社大の2大学がすでに創部していた。 まずは防具・ユニフォームの調達である。創部の中心人物であった川井が上京。当時の関東連盟理事長であったポール・ラッシュ氏にかけあい、会長の浅野良三氏から大枚2千円の寄付を得ることができ、早速、防具・ユニフォーム22名分を発注したのである。 最初の練習場所は、仁川畔の川べりの500坪ばかりの小石だらけの荒地。部室はそのすぐ近くの借家の2階であった。最初のフォーメーションは関西大式のシングルウイングを採用。初試合は5月25日、関学グランドでの同志社大戦で0ー20の敗北に終わった。秋のリーグ戦では、同じ同志社大に20ー13と感激の初勝利を手にすることができ、メンバーたちは互いに抱き合い歓びを分かち合った。 しかし、12月8日にわが国は米英に宣戦布告し太平洋戦争に突入し、国を挙げて戦争一色の時代となる。井床、川井らの創部メンバーは繰り上げ卒業となり、上ケ原から去ることを余儀なくされた。その翌年の1月、甲子園南運動場で行われた東西交流戦に出場し、慶応大との試合に臨んでいる。 1943年に入ると戦争への緊迫した様相が色濃くなり、3月に文部省が通達した「戦時下学徒体育訓練要領」により鎧球は敵性スポーツとして体育種目から除外された。7月には学院が鎧球を含めた、野球、拳闘などの鍛錬部廃止を決定。同月15日に中谷一明主将は、急遽部員総会を開いて倶楽部の解散を決め、創部以来わずか3年、5シーズンの短い球史は、涙の終止符を打つこととなった。 それからの2年間は、わが国にとって果てしない暗黒の時代であった。創部の立役者であった川井をはじめ数名のOBたちは戦地に没し、再びフットボールと接することができずに帰らぬ人となったのである。
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