関西学院大学アメリカンフットボール部|創部80周年記念誌
134/177

創始Chapter-1戦後初の夏合宿、兵庫県加古郡天満村円光寺(1947年)善戦した明治大との第1回定期戦(1948年1月25日)数多くの新人部員を迎えてチームは活況を呈する(1948年春)(昭和16年-23年)134終戦後の復活と礎の構築 1945(昭和20)年8月14日、わが国はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏に至った。 関学の戦後復活は、解散時の責任者であった中谷が帰ってからである。1946年2月初旬、OB10人と学生4人が集まり、チーム再建について語り合った。井床監督、中谷コーチが指名され、深谷主将をリーダーに10数名の部員で始動。しかし、素人ばかりの集団で防具は足らず、裸足か軍靴のスタイル。食糧難の時代に練習は思うように進まなかった。2月20日には関西米式蹴球連盟が結成され、3月21日に関西OB対関西学生軍の復活第一戦が開催された。 秋のシーズンに入り主将となった松島保のもと、ようやく部員のポジションも確定しチームは着実に成長。リーグ初戦で関西大に初めて土をつけるという殊勲を果たす。しかし、覇権を争う同志社大戦では2度のタイゲームの末、第3戦目で2ー7の無念の敗北をとなった。この敗戦が大きな問題を起こすこととなる。当時の主力は高商部員であり、蛮カラな硬派タイプが揃っていた。一部大学選手の軟弱な気風を良しとせず、独立を主張したのである。OBや松島主将は説得に努めたが、高商の10数名はチームを離れ、大学の数人も退部。チームは崩壊寸前の危機にさらされた。 1947年のシーズンは、敗戦中尉であった松本庄逸主将率いる11人でスタートした。8月下旬戦後初めての合宿を兵庫県加古郡天満村の円光寺で実施。松本主将はグラウンドに立てば恐ろしく怖かったが、練習外では良き兄貴分と親しまれ、関学伝統の家族主義的なチームが確実に形成されつつあった。この年、第1回甲子園ボウルが開催している。 同年、新制中学部が開設され、大学の練習を興味深く見ていた新入生たちがチームを設立。翌年の春には、橘高紀雄マネージャーの人間味と誠実な勧誘策に導かれて大量の部員が入部した。今に至る大・高・中のフットボール一貫体制の基盤を築くこととなったのである。 1948年1月25日、明治大との第1回定期戦が甲子園球場で行われ、関東の強豪相手に6ー13と善戦。この敢闘は前途に一条の光明を見出した。三重県津海岸での夏合宿を経て秋のシーズンに挑んだが、関西大と引き分け、再試合に敗れてまたしても覇権を得ることはできなかった。しかし、関学フットボールならではのチームワーク精神を育んだ、基盤構築の時代と言えよう。

元のページ  ../index.html#134

このブックを見る