躍進Chapter-2第8回甲子園ボウルで立教大から王座を奪回(1953年12月6日)慶応大に勝利し甲子園ボウル2連覇を達成(1950年12月10日)立教大に連勝し甲子園ボウル2連覇を果たした4年生部員(1954年12月5日)(昭和24年-31年)138大・高・中一貫体制の充実、そして全国4連覇へ 甲子園ボウル初優勝の翌年、1950(昭和25)年の目標はもちろん全国2連覇。米田主将による新エールとともにスタートした。しかし、春はTの早稲田大に完敗する。夏合宿は山口県で行い、秋のリーグ戦は無難に優勝。甲子園ボウルの相手は予想に反して早慶戦で逆転勝利した慶応大となり、2連覇を達成する。 1951年の4年生は来住義朗主将ただひとり。多士済々の3年生との融和がうまくいかず、春は不振の連続であった。夏の信州合宿を経てチームは見事に立ち直り、リーグ戦はTとシングルを併用し快調に勝ち進んだ。甲子園ボウルは初出場の立教大。3Qまでリードを許すが、終盤14ー19と追い上げる。ラストプレーのダブルリバースパスがゴール前3ヤードで止められ、無念の惜敗となった。 1952年は不動の陣容で王座奪回を目指した。甲子園ボウルはスプリットTとシングルウイングの併用で立教大に挑んだ。しかし、終始T攻法にペースをとられ完敗を喫した。 そして1953年、新しい時代がやってきた。大量の中学部一期生たちが入部してきたのである。チームに新風が吹き、春の新人戦で立教大、明治大に勝利。甲子園ボウルはまたも大型ラインを誇る立教大。新人たちの活躍もあり快勝であった。同日、高等部、中学部も勝利し、大・高・中ともに日本一という快挙を成し遂げた。 1954年は秋のリーグ戦前に日本大と初対戦し、将来の強敵を予見させるものがあった。甲子園ボウルは圧倒的に優位とされていた立教大。しかし、逝去された大石学長に捧げる喪章を付け、米田豊主将のもと小雨けむる甲子園で燃えた。甲子園ボウル初のフィールドゴール、確実なランを決めるなど、2連覇を果たした。この年、フットボール創始20周年を記念して、全関東対全関西の西宮ボウルが開催されている。 1955年春、米田監督の提唱で西日本選手権大会が始まった。東西交流戦では日本大の特異なアンバランスTの馬力に屈した。甲子園ボウルはこの強敵との再戦で、つねに先手を奪われ、残り40秒で日本大26ー関学20。自陣18ヤードからの起死回生のパスが通り同点。歴史に残る引き分け試合となった。 1956年は木谷直行主将のリードでチームがひとつにまとまり、春に明治大、立教大、日本大を倒して、甲子園ボウルまで不敗であった。日本大との甲子園ボウルは33ー0で完勝し、史上初の全国4連覇を達成。終戦後からの復活10年、若いチームはここまで成長したのである。
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