色々考えさせられたな。その時はコーチも足りひんかってんけど、ディフェンスの堀口直親(1987年卒)が戻ってきてくれて、オフェンスも小野宏(1984年卒)が帰って来てくれてな。少しずつコーチは揃ってきてんけど、結局、選手やスタッフが本気出さないと意味ないねん。学生が。で、個人面談を始めてん」――個人面談の成果はすぐに出たか 「それは分からんな。意味はあったと思うけどな。俺が全員の前でしゃべって、選手は『はい』って言うねんけど、全然理解していない。あれ、指導者は勘違いしてるねん。伝わってるって。大勢の前で何回言うてもできないし、やらない。自分のことやと思っていない。それで、男の約束を作ったろうと思って面談を始めたんや。4年生が本気にならへんと下級生もやるわけないわな。本気にならないと損やし、4年生の1年だけやろ。実質9ヶ月くらいやんけ。全てそのクラブに賭けてやってみろや、と」――個人面談の本当の狙いは 「4年生を本気にすることやな。自分と向き合ってほしいねん。上級生になって、いきなり偉そうに言っても伝わらへん。そんなもん当たり前や。下級生は4年生の過去を見てるからな。3年間いい加減にしてきたことを下級生の前で『俺はこうやった』という後悔を認めて、接しないとあかん。それで、初めて下級生に話ができるんちゃうか。せやから、まずは弱い自分をさらけ出さないとあかん。俺との面談もやし、4年生のミーティングでも。自分にできることは何やねん、と。偉そうに言うだけはいらんねん。今年はやるって宣言させて、仲間に見張ってもらったらええやん。弱さを認めてやる学生の方が成長すると思うわ」14――アメリカで学んで戻ってきた。監督になるつもりだったんですか 「そんなもん全然ないよ。監督やるために帰ってきたとか、ほんまにないねん。伊角さんが『お前がやれ』って言うから、やらなしゃーないやん。アメリカから帰ってきて、全然あかんねん。ヒットもできひんし、タックルもできひん。アメリカの選手は小さい頃からフットボールに親しんでるからええけど、日本はそんなことないやん。大学生からの選手もおる。俺は、まだヘルメットとショルダー着て練習をやってたからな、あの頃は。当たり方から自分を実験台にしてヒットドリルを編み出したんは俺やで。あのメニューは俺が考えたんや」――監督就任直後の5年間で4回負けた 「監督も急になってしもたんやけど、監督=勝たさなあかんとしか思っていないねん。やのに、3年目から3年連続負けたやろ。分岐点はあそこやったな。あれが大きかった。学生を本気にさせる方法 甲子園ボウル4連敗という屈辱から指導者の道へ。そこで、鳥内は渡米してコーチ留学する決意をした。どうやったら甲子園で勝てるのか、後輩たちを勝たせてあげられるのか。とにかく必死だった。本場アメリカではサザンオレゴン大やUCLAで学んだ。1986年、FIGHTERSに帰ってきてコーチになり、92年に監督就任。伊角富三(1973年卒)からチームを引き継いだが、前途多難だった。
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