関西学院大学アメリカンフットボール部|創部80周年記念誌
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試練Chapter-3当時の関学上ヶ原グランドでの練習風景創部20周年記念式典(1961年春)高等部が甲子園ボウル11連覇、200連勝の大記録を樹立(1961年12月3日)(昭和32年-40年)140忍従と雌伏の長い歳月 1957(昭和32)年から1965年までの9年間は、関西リーグでは優勝できるが甲子園ボウルでは勝利することができず、長い忍従と雌伏の長い歳月であった。それでも、部の体制固めに懸命に取り組んでいた。1961年、創部20周年を記念して機関紙『Fight on』の発刊。また、OB会の整備、父兄会や後援会なども結成され、1963年には「KG Football Recreation Day」という、関学ファミリーを総動員した企画も盛大に行われた。 大学、高等部、中学部の監督を兼任していた米田は、三者の結びつきに腐心していた。当時、大学の部員数は、30数人から40人を少し上回るくらいの体制。「中学生にはフットボールを好きにならせる。高等部は基本に徹する。大学には自覚を求める」ことを大方針に掲げ、大学、高等部の合同練習や合同合宿を行うなどの結果、10年選手が次つぎに生まれていった。しかし、同じ穴のムジナが適当なところで妥協し、厳しさに欠ける懸念も随所に見られた。また、フットボールは選手交代が自由であることを知りながら、中心選手が攻守の両面を担当することが多く、故障者が増え勝敗の決定的な要因となり苦労することが多かった。 春のシーズンは関生寮での合宿に始まり、1964年以降は新グラウンドにスポーツセンターが完成し、合宿はそこに移転した。試合は西日本大会と東西交流戦である。この時期はメンバー編成に苦しんで、力不足を露呈していた。それでもこの9年間の戦績は、西日本大会で8回の優勝、準優勝1回であった。東西交流戦は貴重な修練の場である。明治大とは9戦で7勝2敗、慶応大とは4戦で3勝1分、立教大とは6戦で2勝3敗1分、そして、日本大とは7戦1分6敗。関東との歴然たるレベルの差、フットボールへの厳しさの違いを思い知らされるばかりであった。 夏の合宿は、1956年から1960年までと1964年は福知山で行い、主に野球場と自衛隊グラウンドを使って懸命にチーム作りに努めた。「はとや」のおばちゃん、前の広場で見られる消防訓練、福知山音頭に浮かれる盆踊り。合宿最後の夜はジュースとクッキーで部員たちの得意芸の披露と合宿ソングで楽しみ、米田監督の「ダンチョネ」でお開きとなった。1961年は岐阜の金華山頂まで駆け上がり、1962年の山陰倉吉の合宿では10数名が食中毒にかかり、マスコミでも報道され大騒ぎとなった。1963年の岡山で行われた、作州久世合宿の思い出も深い。

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