関西学院大学アメリカンフットボール部|創部80周年記念誌
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試練Chapter-3米田監督の引退を報じる朝日新聞(1966年2月7日)1点差で日本大に敗れた第13回甲子園ボウル(1958年12月7日)甲子園ボウル8連敗となった日本大学戦(1965年1月15日)(昭和32年-40年)142甲子園ボウル8連敗を喫する この9年で関学は、甲子園ボウル8連敗を甘受する。日本大7敗、立教大1敗であった。 1957(昭和32)年はアンバランススプリットTで日本大に挑んだ。相手守備は混乱し、確実に前進。しかし、ゴール前で2度の反則を犯し自滅、勝てるゲームを逃した。 1958年は日本大相手にシングルとTの併用で先行したが、後半パントリターンTDで逆転された。終了3分前に再逆転のTDパスが通ったと思われたが無情にも反則があり、苦い1点差の敗北に終わった。 日本大は1959年に篠竹幹夫監督が就任。スパルタ練習で鍛え上げた強力ライン、俊足RBを擁したチームに、梶要介主将率いるメンバーもまったく歯が立たなかった。 1960年は弓道の用語「残心」を合言葉にスタートした。甲子園球場改修のため西宮球場で開催された甲子園ボウルは、大型ラインを誇る立教大が出場。ラン攻撃に翻弄され、またもや勝利には届かなかった。1961年、日本大は部員の集団脱走があり3年生以下のチームで出場。関学の大黒柱であるQBが故障で本来の力が発揮できなかったが、4Qに6ー6とする。しかし、終了5分前に突き放され試合終了となった。 1962年は後の監督となる武田建が長い留学から帰国しコーチとなる。日本大相手にアメリカ直輸入のプロT、WR・SEへのパスで戦った。3Qを終わって24ー12のリード。しかし、4Qに入りアンバランスTからオープンを執拗に攻められ、ラスト4分に2 TDを奪われまたしても勝利を逃した。 1963年は伊藤忠男主将のもと、タイヤ引きで基礎体力の養成を図った。日本大を相手に前半はリードを許すが、4Qに18ー14と逆転。しかしここから、日本大は底力を発揮し、ショットガンから瞬く間に2 TDを獲得し、再逆転負けとなった。 1964年は従来のコーチ制度を改め、学生による自主運営チームを目指した。この年、日本フットボール30周年を記念して、戦後初の全日本学生選抜のハワイ遠征が行われ、関学から米田コーチ、12名の選手が参加している。翌年1月に延期された日本大との対戦は、関学が先行するも、ショットガンからの縦横無尽の攻撃で撃破された。 1965年はハワイの著名なコーチ久保田秋夫先生が、特別研究生として関学に来られ、夏合宿で指導していただいた。立教大との対戦は、優勢に進んだが最後に追いつかれ両校優勝。この試合を引き際に米ヨネ田監督が引退を表明。前半期を支えた「米式フットボール」の時代を終えたのである。

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