雄飛Chapter-4日本大に勝利し甲子園ボウル11年ぶりの単独優勝を遂げ、胴上げされる徳永監督(1967年12月10日)11年ぶりの全国制覇を果たした力強いランプレー(1967年12月10日)和気あいあいとした春合宿(1967年)(昭和41年-53年)144近代化と第二期黄金時代 いざなぎ景気の真っただ中から始まる第二期黄金時代は、スポーツ界での国際交流が急速に活発化していった時代でもあった。東京、札幌で開催されたオリンピック、大阪万博、円高ドル安などが引き金となって、日本選手の海外遠征、海外一流選手の来日が頻繁に行われるようになった。 フットボールはアメリカ生まれのスポーツでありながら、この時期まで本場との交流は極めて少なかった。しかし、1971(昭和46)年12月のユタ州立大、翌年のハワイ大、続いてウェイクフォレスト大と本場からの来日が続く。関学はこの流れの中心にいた。チームづくり、組織づくり、相手の戦力分析、戦法、プレーの選択。どれをとっても当時の水準を一歩も二歩も超えていた。それまでの日本のチームになかった、システマチックなフットボールの登場であった。その主役は長いアメリカ留学で吸収した豊富な知識を関学に注ぎ込んだ武田である。最初はアメリカ式の指導方針に部員たちは戸惑いを見せたが、本場の押しつけではなく、日本の実情と水準に応じた適切な手直しがされ、次第にチームに浸透していった。 1966年、監督に「和」掲げた徳永義雄が就任した。春の西日本大会で関西大に引き分け、抽選負け。甲子園ボウルでも日本大に遠く及ばなかった。 翌1967年は滝悠喜夫主将率いる強靭なメンバーのもと、春から好調で日本大との定期戦で久々の勝利を遂げた。同校との甲子園ボウルは強力ラインが健闘し、パスとランがうまくかみ合い11年ぶりの単独全国制覇を果たした。 1968年、闘将鳥内監督が就任。主力メンバーが卒業した穴は大きかったが、夏合宿を経てチームは一変し、秋のリーグ戦は難なく20連覇を達成した。甲子園ボウルは21年ぶりに関東を制した明治大。試合は関学のパスを明治大のオプションが追いかける死闘となり、四転五転のあげく2点差を守りきり全国2連覇を達成した。試合後、武田は「関学がリードしているときに、試合が終わったに過ぎない」と語っている。 1969年は大学紛争が関学にも波及し、混乱が続くなかチームづくりの苦労が続いた。攻撃には自信を深めたものの、守備の強化が次の課題としてクローズアップされた。武田は米国からの友人でSF49rsのコーチ、マイク・ギディングス氏を招いて、守備のシステム化の充実に力を注いだ。しかし、甲子園ボウルでは、日本大の強力なラインに攻守とも圧倒され14ー30と完敗した。
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