関西学院大学アメリカンフットボール部|創部80周年記念誌
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苦闘Chapter-5近畿大とのリーグ戦に逆転勝利(1980年)リーグ戦プレイオフの同志社大戦を制し甲子園ボウルへ(1979年12月1日)高等部が全国高校選手権で2年連続優勝(1980年12月26日)(昭和54年-平成2年)148関西リーグ混戦の時代を迎える 関学は関西リーグ30連覇という偉業を続けていたが、その戦いぶりは急速に苦しいものとなってきた。独走を誇った季節は過ぎ、実力伯仲の戦国時代へと「苦闘」が始まる。 1979(昭和54)年、森下征郎監督が就任。滝、広瀬助監督、伊角ヘッドコーチの体制となった。リーグ戦ではすでに1敗の同志社大に敗れ、プレイオフで雪辱を果たし甲子園ボウルへ。しかし、日本大の壁は厚く0ー48の完敗であった。 翌1980年のリーグ戦は、近畿大と同率優勝。2年連続のプレイオフとなり、かろうじて甲子園ボウルの出場権を獲得した。しかし、またもや日本大に7ー42の大敗を喫し、その力の格差は歴然としていた。 関学のチーム力が相対的に低下したのはなぜだろう。かつて他大学と比べて関学はアドバンテージを持っていた。それは中・高・大の一貫体制である。しかし、他の高校チームが増加すると各校とも経験者が増え、未経験者でも運動能力の高い選手が集まり始めた。フットボール人気が高まるにつれて、関学の優位性は薄まってきたのである。そこで「大学を強くするにはまず高等部から」と2年前から武田元監督が高等部の監督に就任。その指導のもと、高校選手権で2連覇を果たす。 高等部から優秀な選手が入部してきたのが1981年であった。秋のリーグ戦は好調に勝ち進み、大量得点で勝ち抜いてきた京都大との全勝対決を48ー0の大勝で甲子園ボウルに駒を進めた。しかし、下級生中心の日本大に終始リードされ、31ー42とどうしても赤い壁を突き破ることができなかった。 1982年は滝監督のもと新布陣を組んだ。しかし、6月に部員一人が不祥事を起こし、練習、対外試合の自粛を決定。練習再開は8月1日からとなった。リーグ戦はまたもや京都大との全勝対決。だが前年の京都大ではなかった。春の対戦で頭部を負傷し、帰らぬ人となった選手の弔い合戦。その厳しい気迫に押され、わずか1TDの痛恨の敗戦。リーグ33連覇を続けていた牙城はあっさりと崩れ去った。 34年ぶりに挑戦者となった1983年。攻守ラインの大半が卒業し、ショットガンからのパスに活路を求める。秋は再び京都大との全勝対決。だが、前半リードを許し、後半追い上げたものの28ー30で2年続けて涙を呑み、甲子園ボウル出場はならなかった。 関学は過去の伝統と勝利を過信し、新しい時代を作ろうとする進取の気性に欠けていたのではないだろうか。

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