苦闘Chapter-53年ぶりの甲子園ボウルで日本大にラスト4秒で同点とし両校優勝となる(1984年12月9日)レナウンとのライスボウルは後半に追い上げるが勝利には届かず(1986年1月3日) 初めて南オレゴンで行われたアメリカ夏合宿(1986年)(昭和54年-平成2年)150京都大と日本大の壁、関西リーグ6位陥落 木谷監督が就任した1984(昭和59)年のリーグ戦は、混戦の末に近畿大とのプレイオフとなる。試合は初の延長戦となり、5Qに連続パスが成功し逃げきった。3年ぶりの甲子園ボウルは「赤と青」の伝統の対決。34ー42で迎えた残り4秒にTDパスが通り、2点TFPに成功。7年ぶりの両校優勝とした。ライスボウル出場を決めるコイントスには敗れた。 翌1985年、ついに関学は8年ぶりに単独学生王者に輝く。甲子園ボウルは春に大敗した明治大との対戦。関学のパスと明治大のランの攻防となり、48ー46で迎えた試合終了6秒前、明治大はゴール前3ヤードから逆転のFGに失敗。関学の優勝が決まった。ライスボウルはレナウンを相手に前半は大量リードを許す、終盤の猛反撃で3点差まで詰め寄るが、無念の敗戦を喫した。 1986年、春は日本大との定期戦に勝利し順調にスタートしたが、秋の京都大との全勝対決は、関学のお株を奪うようなマルチプルオフェンスを展開され、7ー35と大敗をとなった。 1987年、京都大との3年連続の全勝対決となったリーグ戦は、劣勢が予想されたが3Qに14ー17まで追い上げた。だが、地力の差大きくQBの独走TDを許し力尽きた。 伊角監督が就任した1988年。パワー不足を痛感し、Iフォーメーションの攻撃を展開した。リーグ戦決勝は1敗同士の京都大。オプションを軸としたランに徹し、17ー12で粘り勝った。日本大との甲子園ボウルは、前半を終了し14ー14の接戦。しかし、後半はショットガンからのランで2TDを奪われ、独走TDで追い上げるも届かず、涙を呑んだ。 元号が平成に変わった1989(平成元)年。関西のレベルは年々アップし、リーグ戦は苦戦の連続。しかしながらも、全員の執念で2年連続の甲子園ボウル出場をつかんだ。日本大との対戦は、パスを立て続けに決められ14ー45の大敗であった。 1990年、創部50周年を前に関西リーグ6位という思いもよらぬ凋落を見せる。この年はより高度な技術が求められる、ラン&シュート隊形を導入。しかし、この真価を発揮することはできなかった。秋のリーグ戦は4連敗を喫し、最終戦は近畿大と引き分け、リーグ6位に低迷することとなった。 これで「関学神話」は消え去った。半世紀の歳月を経て、チーム内に沈殿した澱のようなものが一気に噴き出したのではないだろうか。精神的な弱さ、コーチへの依存、厳しさに欠ける練習、試合に臨む安易な姿勢など、創部50周年を迎えるにあたり、神が下された啓示だったのかも知れない。
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