関西学院大学アメリカンフットボール部|創部80周年記念誌
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生で、今で言うところの高校2年生でしたが、橘高さんが私の家まで5回も勧誘に来られたんです。1、2度は松本主将も来られましたが、みなさん、制服、制帽できっちりとされ、「どうぞ、ぜひ関西学院に来てください」と。橘高さんは、徳永義雄さんや後に関学大の教授になった髙橋治男先生の所へも行っておられたようで、中学タッチフットボールの1期生だった、奈良中学、豊中中学、池田中学を重点的に勧誘していたと思います。私、実はそのときには同志社を受けて合格していたんですよ、いろいろと人生を考えていた時期でしたし。決定的だったんです、橘高さんとの出会いが。とにかく、にこにこしていて、あたたかい感じなんですけど、物凄く鋭く観察されている方でした。人柄に惹かれたというより、安心だなと感じましたね。私の母親などは「あの人たち、いい人が多いね」と言っていましたから。山田  橘高先輩のお陰で、古川先輩が関西学院のアメリカンフットボール部へ入部されたわけですね。入部されてからはいかがでしたか。古川  橘高さんの後は、ポーター先生ですね。ポーター先生は、私が高等部3年のときにアメリカから中学部と高等部の英語の先生で来られた宣教師待遇のような方でしたね。コーチとかじゃないんですが、ほとんど毎日、サイドラインで練習をにこにこしながら見ていたんです。歳は我々より2、3歳上くらいだと思いますけれどね。それがある日、フットボールの防具を伊丹の米軍のキャンプ基地からジープに乗山田  今、少しお話が出たのですが、1949年の第4回甲子園ボウルで慶應義塾大学に勝利し、初の全国制覇を果たされ、翌年も2連覇を成し遂げられています。この頃の苦労談などはありますでしょうか。古川  ミスター・ローが来てくれた年とその次の年とは雰囲気がガラッと変わりましたね。やると勝てるんだということでしょう。投げて良し、蹴って良しの徳永さんと米田さんがクォーターバックで、足の速い髙橋がフルバック。池田高校を1番で出て、京大へ行くと言うのをみんなで引っ張り込んだ鈴木博久と、最初の甲子園ボウルのときのレギュラー3人、せて、ごそっと持ってきてくれたんです。これは本当に嬉しかった。それまでは、戦前の先輩方が残していってくれた日本製の古い防具を着けていたんですが、アメリカ製が来たんですよ。30年前のカリフォルニア・オレゴン合宿の時にも来てくれて。いつもにこにこして、本当にあたたかい人でした。 それからミスター・ローですね。ミスター・ローは、米軍の神戸キャンプ基地に駐屯している軍の下士官待遇の方で、軍服を着てきちんとしているのですが、ものすごくいい人でした。この方が関西学院に初めてシングルウィングの右エンドラン、タックル、リバース、リバースパス、全体のシークエンス、全体としてまとまったフォーメーションの思想・原理を教えてくれたのです。当時の日本の大学には、プレーの中にあまり連携がなかったのですが、それをミスター・ローが教えてくれました。秋だけだったかな、1948年の。それでも、これは関西学院にとってはものすごく大きかった。その年は関大に負けたのですけど、次の年には日本一になったわけです。シングルウィングを駆使して甲子園を走り回った。 そして、我々が入った時の副部長で教頭先生だった児玉国之進先生ですね。多分、児玉先生がキャンプ神戸の司令官だか、かなり偉い方にコーチを派遣してくれと頼まれたのだと思いますね。そうでないと勝手に軍務を離れて来てくれるはずがないですし、他には考えられないですよ。154勝てるんだから勝とうやと、そんな感じでしたね。

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