バックスは1年生です。その後、池田高校の主将だった尾田升が大学1年から来てくれたんで、第4回の甲子園ボウルのときは、11人のレギュラーの内5人が1年生でしたね。鳥内昭人さんがラインの4年のリーダーで「鬼の鳥内」と言われてました。もう、試合中は鬼ですわ。だけど終わったら「おい、お好み焼き行こうか」と気さくに声をかける、そういう方でした。だから、大学1年だったその時は、絶対に今年は勝てるという気持ちがあったんです。勝てるんだから勝とうやと、そんな感じでしたね。慶應と初めてやったわけですけどね、当たったときに、ああ、これは大したことないなと(笑)。悪いけれどね。ですから、1949年度の春からは、苦労というのはほとんどなかったですね。だけど夏の合宿だけはきつかった。今のように栄養のある食べ物がない、芋のつるとかそういうのがおかずなんですよ。今の方には想像できないでしょうが、あの合宿は辛かったですね。みんな頑張っていましたよ。とにかくやった。絶対勝山田 ところで古川先輩は、卒業された後、コーチもされていたのですが、関西学生アメリカンフットボール連盟を作られました。いろいろと発展期だったのでご苦労されたかと思うのですが。古川 そのことは非常に大事なことです。私が大学3年生のときに、関西学生アメリカンフットボール連盟を正式に立ち上げました。当時の先輩方は本当にみなさん、いい人ばっかりだったのです。どの大学の方もいい人たちでした。しかし、連盟運営とかそういうことについては、あまり積極的ではなかったのですね。これは何かしないといけないなと思ったのです。それで、同志社と京大、それから関大の方と4人で連盟を発足させたのです。まずは連盟を作らなければいかん、組織をきちんとしなければいかんというのが、その頃から私の思想としてはあったのですが、まあ、はっきり言って、勝手にやったということですね。それにみんなが賛成してくれて、私の家で発足式をやったのです。4人で「よし、やろう」って。それが原点です。その後、大学を出てアメリカへ留学して、帰って来ると、やっぱり組織が要るよとてると信じてました。ただ、京大が強かったんです。山田 その年の京大戦は、19対13で勝ったんですよね。古川 あの試合は、はっきり言って負けると思いましたね。前半を終わって鳥内さんが「お前ら、負けると思ったらあかんぞ」とみんなを元気づけてくれたんですよ。それで何とか後半、いろんなトリックプレーで、それも前の年からのシングルウィングが活きているわけですよ、完全なトリックプレーで勝てた試合でした。だけど、京大が甲子園へ行って日本一になっていた可能性の方が高かったと私は思っています。山田 そうなっていたら、歴史が全然変わっていますからね。第4回、第5回ともに甲子園ボウルで慶應に勝って連覇されました。慶應はそれ以来、甲子園ボウルに出ていないのですが、我々は第4回からずっと出させてもらっている。本当に有難い話だと思います。なって、それが今に繋がっています。だからコーチというよりも、私は組織を作らなければいかんという思いが強くて、それが今までずっと続いていて、この間までやっていたわけです。山田 伊角富三さんから、やっぱりチャック・ミルズさんが来られ、ユタ州立大学が来たから、日本のというか関西のフットボールは大きく成長したというお話をよくお聞きしたのですが、ユタ州立大学との試合の招致には、相当なご苦労があったのではないでしょうか。155組織を作らなければいかんと、まあ、勝手にやったということですね。
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