関西学院大学アメリカンフットボール部|創部80周年記念誌
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古川  苦労と言うより、私がアメリカへ1年だけですが行ったときに、ある程度は行く前から分かってはいたけれど、実際にアメリカのフットボールを見て、やっぱり本場との交流というのは絶対に必要だと実感したんですよ。私も向こうで1年間だけコーチを勉強したり、ずっとその思いが今も続いています。 ユタ州立大学の件は、チャック・ミルズさんが「自分たちの方で行きましょうか」と声を掛けてくれ、当時の武田建監督が受けてくれた。これがアメリカとの交流の始まりですね。後は徳永さんと私の世話焼きOBが各大学に、全関西、東京は全関東、日本選抜ということでやりたいから、切符だけは売ってくれよということでスタートしたんです。これをユタ州立大学が燃え上がらせてくれ、日本の各大学が頑張って、それからずっといろんな大学が日本に来てくれているわけです。チャック・ミルズさんが日本のフットボールのために尽くしてくれたこと、またその弟子のケント・ベアーさんが平成ボウル・ニューエラボウルを30年間、ほとんど毎年来て助けてくれたこと。この二人は、もう最大の恩人ですね。 今はオンラインで見られるからとか、そういうことじゃなく、やっぱり私は行かないといかんと思うんですよ。若いコーチはアメリカの大学のコーチの中に入って勉強する。それを今の大村和輝監督は関学でやってくれていますよね。山田  ちょっと話は変わってOB会のことなのですが、古川先輩が1976年に「UNSUNG HEROES 賞」を発案されたとお聞きしています。第1回の受賞者はキッカーだった千田英雄さんで、隠れたところで努力し、部に貢献したものに贈られる賞として、今も引き継がれているのですが、どうしてこの賞を作ろうと思ったのか、その経緯を教えていただけますか。古川  これはね、キックだけを一生懸命に練習している千田君の姿を見てね。千田君は非常にいいクォーターバックだったんですよ。だけど、チームには玉野正樹君が居るしね。それでも千田君はクォーターバックの練習をしながら、一生懸命に蹴る練習をしてくれた。あの頃のパンターとかキッカーというのは非常に山田  古川先輩は連盟にずっと携わってこられたのですが、連盟の立場から見て、我々関西学院大学のフットボール部をどのように感じておられたのでしょうか。また、他の大学との違いなどもあれば教えていただきたいのですが。古川  私が専務理事をやっていた30数年間も、理事長をやっていた時も、ここはちょっとおかしいんじゃないかとか、そういうチームはほとんどなかったですね。他の大学もみんな紳士的にやってくれています。 特に関学のアメリカンフットボール部は、いわゆるテレビ放映権料の分配なども、本来はもうちょっと貰えるはずでも一切そういうことを言わなかった。本当に立派に行動していましたし、他の大学もみんな頑張ってくれていた。でも順位によって大分違うから、下位のチームはあまりないわけですよね、全盛期の頃でも。だから、やっぱりその辺は理事会で話をして、せめてこの位はとかはありましたね。1年間の放映権の分配も含めて、一番上はいくら貰っているのに7位8位がゼロとか、そんなことは絶対駄目だと。関学はそういうことに対して、絶対に口を挟むようなことをしなかったですね。そういう雰囲気があったから、他の大学もみんなやってくれてました。今でもそのときの関学の態度は立派だったなと思ってますね。貴重な存在で、それを黙々とやっているわけです。それで徳永さんと私、いつもの世話焼きOBがしゃしゃり出てね。やっぱり千田君を何とかしないといかんとなって、「UNSUNG HEROES賞」というのはどうだと。その「UNSUNG HEROES」という言葉は、ノートルダム大学のヘッドコーチだったフランク・リーヒーの本から私が取ったんです。ディフェンスタックルのことで、守備のタックルはただタックルするだけで何の栄光もない。ランニングバックは賞を貰えるけれど、ディフェンスタックルはただ黙々と相手を止めるだけ。フランク・リーヒーはヘッドコーチとして、この人に感謝を捧げるとこの本に書いてあったんですよ。徳永さんに「どうだ?」と言ったら、「すばらしい」156若者よ、アメリカの大学へコーチの勉強に行ってください。

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