ねん。あとはやるだけ、ってなる。その話の後、4年生と1人ひとり握手してロッカールームに向かわせる。どんなスポーツでも一緒やと思もうで。テンション上げるのは色々あると思うけど、俺はこういうやり方やったな」――事故があって、監督自身はどう変わったのか 「あれから色んなことが変わった。コーチの教科書というか指導方針もまとめた。教科書を作ろうって。ファイターズ・コーチング・基本指針。今のコーチも、中学部、高等部のコーチもこれに沿ってやってくれているで。大村和輝(1994年卒)が帰ってきてくれて、ずっと安全第一やと言ってきた。『これに沿ってやってほしい』ってな。言いすぎるくらい大村にも言ったで。でもな、それくらい大事やねん。勝たないとあかんねんけど、安全は絶対にやらないとあかんねん。昔は根性練をやらないと勝てないと思ってたけど、もうそれは違うねん」――根性練習をしなくなった。練習も大幅に変わった 「人を亡くすまで練習したらあかんねん。そんなこと分かってるねんけど、分かってるつもりやったんやろな。それまでは練習でも味方の潰し合いやっとんねん。味方同士やで。冷静に考えたら、味方を潰してどうすんねんってなるけど、フルタックルは当たり前やったからな。昔、平成ボウルでアメリカのコーチが来てくれた時に怒ってたもん。『お前らは何をしているんだ』って。普通やと思ってたことが、普通ちゃうかってんな。平郡くんのことがあってな、俺らも気付かされてん。それから味方潰す練習はなくなっていってん。それは防げる怪我やねん。潰さんでええやんって」――練習量も減らした。 勝利と安全は相反する面もあるのでは 「死ぬまで絶対にやったらあかんねん。命懸けでやらないとあかんけど、命落としたらあかん。勝負いうのは、勝ちもあれば、負けることもあるねん。長い間、監督してたら分かる。負けることもあるねん。人が亡くなってまで勝たんでええでって。負けるんは仕方ないねん。これは、大村にも言うたことあるよ。それにな、頭部外傷だけやなくて、熱中症もやばいねん。ラインの選手と他の選手は違うから、そこは考えなアカンでって。あれ1回熱中症になると、そのシーズン何回もなるねん。ストレングスコーチの油谷浩之(1988年卒)に言われてん。そうやって、みんな安全のことには細心の注意を払ってる」――平郡さんのご遺族宅には毎月行ってると聞いた 「線香あげさせてもらいに行ってる。俺を受け入れてくれるご家族には感謝しかない。毎月な、平郡くんにお願いしにいってるねん。『怪我無いように頼むで』って。毎月、線香あげにいくことで改めて人の命の大事さが分かる。絶対に風化させたらあかんし、練習の中身も気をつけないとあかん。あの日のことは忘れたらあかんし、忘れたことないよ」 28年間、日本のトップに君臨し続けた集団を率いた。家業の製麺業を続けながら。自身も「しんどいねん」と口にするほどの生活。自身が学ぶために40歳で母校へ教育実習にも出向いたことも。鳥内にとって、監督とはどういう存在なのか。教育とは何なのか。――鳥内さんが思う監督とはどんな人間か 「夢与えて、目標達成に向けてサポートする人間やろな。フットボールだけじゃなくて、将来はどうなっていくかって言うたらなあかんねん。俺はもともと『フットボールだけやっとたらええ』なんて言ってないで。それはうちのクラブでは昔から言われているはず。『勝ったらええねん』は違いますよって。そういうクラブやねん」――2018年には悪質タックル問題の渦中に。 教育や体罰に対する考え方は 「いろんな部活がな、入った時から人間形成って言われるやん、学校でやる活動やねんから。でもな、『本気になって教育しようと思っているのかな』って聞きたい。教育いうて、体罰というか暴力振るってる人がおる。いまだに、親も『もっ16忘れられない日 監督生活で忘れることができない日がある。いや、忘れてはいけない日とも言える。 2003年8月16日。夏合宿中に当時4年生の平郡雷太さんが急性心不全で亡くなった。学生の命を守ることができなかった後悔は今も消えることはない。人の命が奪われるようなことが2度とあってはならない。世界一安全なチームを作る。そう誓った日でもあった。監督とは
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