関西学院大学アメリカンフットボール部|創部80周年記念誌
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独特に型取られた「KG」に、相手を突き刺す角のようにヘルメットの両面にあしらわれたクレセントムーン。ファイターズのデキャルとしてすっかり定着したこのマークだが、採用されたのは1991年、秋の関西学生リーグから。ちょうど丸30年が経過したことになる。2021年のイヤーブックでも、学生マネージャー達の2年に渡る構想と取材を経てユニフォームとデキャルの誕生秘話が特集されたが、今回はその特集記事にいくらか情報を付け加えてリライトさせてもらった。 1970年頃のファイターズには、まだヘルメットにデキャルを貼るという文化は存在しなかった。その頃、アメリカ・ユタ州立大およびノースカロライナ州ウェイクフォレスト大に留学し、チャック・ミルズ氏の下でコーチ修行中だった広瀬慶次郎にデキャルの参考になるアイデアがないものかと、日本から相談が舞い込んだ。 米カレッジのデキャルには、当時からチームのマスコットが用いられる例が多かったが、ファイターズにはマスコットは存在せず、ニックネームに合う素材も見当たらなかった。米カレッジでは大学名のアルファベットの頭文字をあしらったデザインも多く見られたことから、広瀬はKwanseiの「K」を用いることを考えた。しかし、当時の関西学生リーグには、京都大、関西大、甲南大、近畿大と、同じ「K」を頭文字に持つ大学が多数存在したことから、Kwanseiの「K」とGakuinの「G」を取り入れ、「KG」の2文字を用いることにしたのだ。 次に、カラーをどうするか。「KG」の2文字を青と白の2色で表現しただけでは何とも味気ない印象になってしまった。そこで、現地のフットボール誌で目にしたフットボールの楕円形に「KG」の2文字を入れてみた。これを原案に、留学中の広瀬がポケットマネーで本場アメリカで製作したものが現在も高等部が使用しているデキャルである。 広瀬の帰国後、1974年に出場した甲子園ボウルには、そのデキャルの付いたヘルメットを被り、誇らしげに躍動するファイターズの選手達の姿があった。宮本 敬士(1994年卒) 1990年、秋のリーグ戦。ファイターズは2勝4敗1分で6位の結果に終わった。チーム史上最も不本意な結果に、監督・コーチ、選手・スタッフ、OBなどチームに関係する全ての者が危機感を抱いた。「勝ち続けることは当たり前ではない」ということに気づかされた。当時の主務・宮崎宗裕は、50年史で「『神の啓示が下った』と思えるほど大切な年であった」と述懐している。 何かを変えなければならない、変わらなければならない。当時監督だった伊角富三は、OB有志からの辞任勧告を突っ撥ねてチームの再生に取り掛かった。必死に考え抜いた末に辿りついた一つの改革が、ユニフォームのデザインを一新することであった。1991年2月、合同送別会(現在のファミリー壮行会)を終え、新チームがスタートすると、伊角はすぐに新しいユニフォームの制作に着手した。部外はもとより、部内にもインパクトを与えたいと考えた伊角は、誰にも知られることなく秘密裏にこの計画を進めた。しかし、ユニフォームのデザインなど、素人だけでは到底考えられず、専門家であるデザイナーの協力が必要であった。そこで、当時関西学生リーグのパンフレットのデザインを担当されていた真鍋雅裕氏にアイデアを求めることにした。真鍋氏は現在も甲子園ボウルプロジェクトのメンバーとして、大会ロゴなどをデザインしている。 折しも、関西学院創立100周年を機に、あらためて“KGブルー”がスクールカラーとして制定されたことを受け、関西学院を代表する存在としてKGブルーを基調とした、38新しいデキャルとユニフォームに込められた想いデキャル誕生どん底からの再生Focus on Topics1Reborn-KG新たなる挑戦の記録

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