1992年からの30年は「対日大」「関京」の時代から、立命館の台頭によって「関京立の三強」、そして「関立」の二強、関大も交えた「関立関」の新たな三強時代へと移り変わった。アメリカンフットボールの競技特性である「組織の総力戦」においてディレクターと呼ばれるチームによってマネジメント体制を確立していったことが、ライバル校たちとの激しい競争を繰り広げたファイターズの30年を支えた。 1991年のシーズン終了後に伊角富三監督から鳥内秀晃監督にバトンタッチされた。その際に監督の任命権は部の最高責任者である部長にあることがOB会でも確認された。鳥内監督から現場の指導に専念したいとの要望を受け、宮田満雄部長の要請により部長のサポート役としてディレクター職が創設され、現場の責任者(監督=Head Coach)とマネジメント部門の責任者(=Director)の分業体制がスタートした。 伊角はディレクターとして、OB会、後援会、競技団体(関西学生連盟)、報道機関などとの関係構築に努めていくとともに、最も重要である大学と部の関係を調整し、学内での交渉役を担った。スポーツ選抜入試の開始(1992)、大学トレーニングセンターの開設(2002)、第3フィールドへの移転(2006)、指定強化クラブ制度の開始(2006)など、大学からのサポートが充実していく過程において、窓口部局である学生部(現学生活動支援機構)と意見交換を図った。また、コーチやマネジメント部門を担う人材を大学職員とするべく採用試験の受験を促す、米国人のフルタイムコーチを招聘する(1996,97)、コーチ陣を米国の大学へ短期派遣するなど、チームの基盤づくりに取り組んだ。他にも平成ボウル(後のニューエラボウル)におけるコーディネーター役(1990から)やプリンストン大学との交流戦(2001)の企画などを、連盟理事として、そしてファイターズのディレクターとして実現していった。 伊角が最も意識していたのは、「関西学院の学生、教職員、同窓生に『我らのファイターズ』との意識をもって応援してもらえるチームの構築」であった。監督最終年にデザインを一新したユニフォームとデキャルはその象徴であった。 1995年には宮本敬士が大学職員就職と同時にアシスタントディレクター(AD)に就任した。宮本は伊角ディレクター石割 淳(1998年卒)のもと、より現場の活動に近い実務的な面を担うとともに、学生マネージャーの指導を担った。会計業務の統括、リクルート活動(スポーツ選抜入試の受験勧誘)、イヤーブックの編集責任など、広範囲にわたってマネージャーの業務を統括した。2002年には石割淳が大学職員に転職してADに加わり、宮本に集中していた業務を分担するとともに、AD2名体制になったことで従来業務の深化と新たな取り組みの拡充を少しずつ進めた。 一方で、2002-05年に4年連続で立命館大学に甲子園ボウル出場を阻まれる苦難の時を迎えた。大学当局からの圧倒的質量のバックアップによって立命館は躍進し、環境面においてファイターズは水をあけられていた。何とかキャッチアップを図るべく、2006年に小野宏コーチが発起人となりOB有志とADらが集まってプロジェクトを開き、議論を重ねた。その中で、「トップスポーツビジネスにおけるトリプルミッション」(注1)理論が紹介され、これをファイターズ流にアレンジして、「勝利(日本一)」「資金の獲得」「社会的価値の向上」の3つの要素に取り組み、それらを循環させていくことによってより強固なチームを作っていくことを目指すようになった。ホームページの充実(現在はソーシャルネットワークサービス(SNS)の活用も含む)、一般学生を対象とした広報活動の展開、各種普及活動への取り組み(従前からの高校生対象クリニック、小中学生対象のフットボール教室に加えて、上ケ原ブルーナイツやシニアファイターズの主宰、フラッグフットボールの授業支援など。)、OB会とのより緊密な連携、ファンクラブ事務局の引き受け、大学の教育活動としての価値向上(プリンストン大学の2度目の招聘やメキシコ遠征などの40ディレクター職の誕生ファイターズにおける 「トリプルミッション」ディレクター部門(マネジメント体制)の確立2
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