下宿生たちは、それぞれの下宿を回って部員の安否を確認して回った。17日夕方には、大学のすぐ近くに住む小野コーチの家に集まり、情報を交換した。ほぼ全員の安全が確認されたが、一人だけ連絡がつかなかった。2年生のRB山本、通称マサ。住所は、大学のすぐ北側の仁川百合野町。大規模な土砂崩れで民家が飲み込まれ、30人以上が行方不明になっている場所だった。現場は二次災害の可能性があり、近づけない。RBで副将の山田(4年)と長野、小野コーチが大学正門に近い派出所に安否を尋ねに行った。派出所の前には応援で駆け付けたと思われる徳島県警の機動隊のバスが数台、エンジンをかけたまま並んでいた。住宅地図で山本の下宿「聚楽荘」が土砂で埋まった場所かどうかを調べてもらった。警察官が現場と無線で連絡を取る。「聚楽荘はありますよ」。マイクから聞こえた、平然とした口調に3人とも小躍りした。 この地震で関西学院大学の学生・教職員が22人も亡くなった。ファイターズは、1年生から3年生までの部員約120人のうち、下宿が全壊または居住不能となって引っ越したものが9人、自宅が全壊または半壊で住居を変更したもの5人。それ以外にも多くの部員、コーチが被災したが、全員が無事だったのは幸運だった。 主将の山田は大阪市内に住んでいいて被害を免れた。しかし、事態の大きさに途方に暮れていた。17日は西宮方面には電話がつながらず、大阪方面に住む部員や鳥内監督と連絡を取った。そのうちの20人ほどが18日に西宮に向かった。阪急電鉄で西宮北口まで行き、そこから食料や水を持って歩いた。しかし、すでに下宿生は避難したか、実家に帰った後だった。「これからどうしていったらいいのか、どう動いていいのか」。目標の「日本一」が遠ざかるんじゃないか、それより春のシーズンを無事に迎えられるのだろうか、練習はできるようになるのか、選手の中に部活動を継続できなくなる者がでてくるのでは…。いろいろな不安が頭をかすめていった。 21日に体育会本部からボランティアを手伝ってほしいとの連絡が入った。すぐに片っ端から部員に電話をして参加を呼び掛けた。23日の月曜日から予定していたが、22日も山田を含めて12人ほどが学院の救援ボランティア委員会にかけつけた。 集まった4年生の山田、稲川、岸田、村岡(4年)は、大学からバス道を1キロほど下ったところにある上ヶ原南小学校に配属された。体育館は避難してきた人でいっぱいだった。校舎はまだ地震直後のまま。「ごっついにいちゃんがようけきたなあ」。トレーニングで鍛え上げた身体を見て、教頭先生がうれしそうな声を上げた。 仕事はいくらでもあった。まず、教室の片付け。校舎にはいたるところにひびが入っていた。教室内は机が転がり、本棚が倒れ、窓ガラスの破片が散乱していた。他のボラン43学生の安否が確認できないボランティア活動への参加
元のページ ../index.html#43