震災復興チャリティーゲーム 1995年4月20日 @阪急西宮スタジアム VS.日本体育大学ゴールデンベアーズ オフェンスコーチの光山(5年)は、地震の翌日から西宮市役所で全国から届く救援物資の積み下ろしを続けた。昼夜の境なく続々と届く物資に対応するため、2日間ほとんど寝ないまま重労働を続けた。その後は、市の依頼により、市立中央病院で2週間、遺体運びや水の運搬を手伝った。 全体のミーティングが開かれたのは、1月31日だった。2月1日からは入学試験が始まり、受験生に対する勧誘活動が続く。グラウンドの隅で少しだけ各自がトレーニングを再開した。13日からは定期試験が始まったが、夜にボランティアを続けた者も多い。 3月1日。例年通りのシーズンイン。いろいろな苦難を抱えてのスタートでもある。分析用ビデオの複製・管理の拠点になっていた「ファイターズホール」が使用できなくなり、大量のAV機器やテープ類は一時保管のため、学内の施設に運び込まれたままだった。主務の山口(4年)は、神戸市長田区にあった父親の会社の工場が全焼し、手伝いを続けていた。交通網が寸断され、西側から大学に通うのが困難な状況だった。長田区のDL高橋(4年)は今津に下宿することに決めた。須磨区に住むRB渡辺(4年)は武庫之荘の祖母の家へ。 明石に住むOL米澤篤司、順司の兄弟は大阪市内の山田主将宅に居候(いそうろう)することになった。90キロの兄と110キロの弟。しかし、山田の母親はドイツに転勤した父親についていかなければならない。この窮地に奮闘してくれたのが、妹の修子さん(19)だった。朝晩とも巨漢3人の食事を作り続けた。4月にJRが動き始めるまでの1か月以上。東京のいとこや修子さんの友人が応援に駆けつけてくれた。学生コーチの崎(5年)は、避難所のボランティア活動で知り合った子供たちのことがずっと気になっていた。大学院受験を控える身だが、練習のない日には、こどもたちをスキー旅行に連れていった。 夏合宿が迫った8月11日。練習中に、山田主将は部員を集めて言った。「もう一度、俺たちのスタートを思い出そうや。フットボールやれるだけで幸せやったやんけ。がんばろうや」。主将が掲げたスローガンは「勇気」だった。それぞれの立場によってさまざまな意味を持つ言葉だ。今年のチームがスタートする際に、我々に勇気を与えてくれたものはなんだったのか。そして、いま、我々にとって真の勇気とは何か。ファイターズは、一人ひとりがそれを自問しながらリーグ戦を迎える。(1995年イヤーブック特集「KGファイターズ 阪神大震災ドキュメント」再録)45苦難を抱えてのシーズンインフットボールをできる幸せ
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