ファイターズでは、1941年の創部から50周年を迎える1991年まで、実に11人も監督が入れ替わっている。最も長く指揮を執った米田満でさえ、11年で次の世代に引き継いでいる。「強豪」と言われるチームでは、カリスマ的な指導者が長期的に政権を担う例が珍しくない日本の大学スポーツ界において、これほど頻繁に指導者が変わりながらも常に日本一を争い続けている状況はむしろ珍しいのかもしれない。しかし、1992年から2019年までは、28年にもわたり鳥内秀晃が監督を続けてきた。そこにはカリスマ指導者の存在ではなく、次代への体制整備があった。本項では、50周年以降のコーチングスタッフの変遷を振り返る。 1990年、チーム史上最も不本意と言える2勝4敗1分、リーグ6位となった翌年、学生王座に返り咲いたのを機に、4年間指揮を執った伊角富三は監督を退任する。 伊角は6位となった時点でOB有志からも引責辞任の声も出たが、当時の鳥内昭人OB会長が引責辞任し、指導を継続し、1年でチームを立て直した。そして、下級生にも有望な選手が多く育っていたことから、これから数年は安定的な戦力が見込めることを確認したうえで、鳥内秀晃(1982年卒)に次の監督を託したのである。 実は鳥内は、6位となった翌年、家業の製麺業に専念するために、シーズンが終わったらチームを離れることを考えていたが、辞める話をする前に伊角から次の監督を託されてしまったのである。 そこから、ファイターズとしては異例の28年間という長期にわたる鳥内監督時代が続くことになるが、90年代に入り、スポーツ推薦入試や大学を挙げての強化により急速に力を付けてきた立命館大学の台頭もあり、ファイターズもこれまでの体制では太刀打ちできなくなってきた。 能力の高い選手、充実した施設・設備、そして豊富なコーチ陣。立命館大学はまさに強いチーム作りの王道を突き進んでいた。 鳥内は監督として、ディレクターの伊角とともに、指導者の体制構築にも力を注いだ。筆者は現役時代、マネージャーであったが、留年が決まって鳥内監督に報告に行った時のこと宮本 敬士(1994年卒)を今でも覚えている。てっきり「なにしてんねん」と怒られるものと思っていたら、意外にも「よっしゃよっしゃ」と頷かれ、拍子抜けしたのだ。1人でも学生を見る目が増えたことによる「よっしゃ」だった。 1993年には、小野宏(1984年卒)が新聞社を辞めて関西学院の職員となり、同時にコーチに就任した。すでにコーチを務めていた古結章司(1974年卒)と堀口直親(1987年卒)が攻守のコーディネーターを務めたが、93年に甲子園ボウルで日体大を敗って日本一になって以降は、同率優勝も含めて立命、京大の壁を崩せず、甲子園ボウルにも駒を進められずにいた。 96、97年にはケント・ベア注1の下、アリゾナ州立大でグラデュエート・アシスタントを務めていたブライアン・トーマス・ライダーがコーチの勉強も兼ねてスタッフに加わった。 97年には、それまでもアシスタントコーチとして参加していた神田有基(1993年卒)が勤めていた保険会社を退職して学院の職員となり、オフェンスラインのコーチに就いた。 1996年から、オフェンスは小野がコーディネーターとなる。翌97年、今年負ければ甲子園を知る学年がいなくなる、という窮地に立たされたチームは全勝で関西リーグを制した。残り時間59秒、自陣24ヤードから試合終了と同時に同点に追い付き、両校優勝となった甲子園ボウル、法政大学との試合は、「59秒の真実」という小野コーチ(当時)の手記として今もチームのウェブサイトに掲載されている。56コーチングスタッフの変遷9
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