99年には、大寺将史(1994年卒)が学院の職員となり、DBのコーチに就いた。3年後の2001年には、ファイターズとして初めてライスボウル優勝を果たした。普段は勝っても一切表情を崩さない鳥内が初めて胴上げされ、笑顔で宙を舞った。 2003年には、1998年からトレーナーとしてチームに関わっていた油谷浩之(1988年卒)がストレングスコーチに就任し、ファイターズのウィークポイントであったストレングス強化に本格的に着手した。油谷は日本でも有数のストレングス&コンディショニングのトレーナーであり、神戸製鋼ラグビー部や久光製薬バレーボール部など、アメリカンフットボール以外でも多くのトップチームのサポートを務めている。2022年からは女子バレーボール日本代表チームのストレングスコーチに就任し、2024年パリ五輪に向けたチーム強化に駆り出されている。 2004、2005年は小野がオフェンス、大寺がディフェンスのコーディネーターを務めた。2007年からは小野に代わり神田がオフェンスのコーディネーターに就任する。長居陸上競技場での開催となったこの年の甲子園ボウルでは、18年振りの対戦となった日本大学との壮絶な撃ち合いの末、残り3秒で逆転、41対38で逆転勝利を収めた。ライスボウルでは松下電工(現在のパナソニック)に敗れたものの、オフェンスはライスボウル記録となる最多パス獲得564ヤードを記録した。 2009年、現監督の大村和輝(1994年卒)がコーチングスタッフに合流する。 大村が加入した2009年から大学の日本選手権がスタートし、甲子園ボウルは東西大学王座決定戦から現在の全日本大学選手権決勝に姿を変えた。第1回、第2回と決勝に辿りつくことはできなかった。大村がアシスタントヘッドコーチに就いた2010年は関大、立命と同率でリーグ優勝を果たしたものの、プレーオフ1回戦でオーバータイムの末に関大に敗れた。 翌2011年、野原亮一(2007年卒)が学院の職員に採用され、コーチに就任した。再び訪れた今年負ければ甲子園を知る者がいなくなるという窮地に、チームは4年振りに学生日本一に返り咲いた。 2013年には、佐藤之倫(2008年卒)が学院の職員となり、LBのコーチに就いた。 野原は2017年のシーズンを最後にコーチからアシスタン注1:チャック・ミルズコーチのユタ州立大が1971年に来日して日本の学生選抜チームと対戦した際のメンバーで、伊角とは関西学生選抜との試合で対戦して以来の旧友。大学卒業後は米軍横須賀基地のフットボールチーム、シーホークスのヘッドコーチに氏就任した。帰国後はカルフォルニア大バークレー校、スタンフォード大、アリゾナ州立大、ノートルダム大といった米カレッジトップチームのコーチを歴任し、1990年から始まった平成ボウル、ニューエラボウルではアメリカ側のコーディネーターとして度々来日した。トディレクターに転向している。 2014から17年度までの4年間は、大村がアシスタントヘッドコーチとしてオフェンスのコーディネーター、大寺がディフェンスのコーディネーターを務めた。 2018年には、香山裕俊(2012年卒)が専任コーチに就いた。その年から、ディフェンスのコーディネーターは香山が務めることになった。 2018年のシーズン終了後、甲子園ボウル祝勝会の席で鳥内監督が2019年シーズン限りでの引退を発表した。ファイターズとしては異例と言える28年にもわたる監督となったわけだが、鳥内が監督の立場に固執したわけでは全くなく、自身が就任したときには毎日グラウンドに来られるコーチが古結、堀口と5年生のコーチだけであったところから、ディレクターとなった伊角とコーチングスタッフの体制を整えることにも腐心をし、ようやく自分が居なくなっても困らない体制が整ったことを確信し、大村に後を託したのである。 2021年には梅本裕之(2014年卒)が専任コーチとなった。翌2022年、梅本と同期の友國詢(2014年卒)が学院職員となり、OLのコーチに就任し、大学での新しい仕事とコーチの両立に挑戦している。 30年前、監督と2名のコーチ、9名(5年生3名含む)のアシスタントコーチだった指導体制は、今は、監督と2名の専任を含む7名のコーチ、6名のアシスタントコーチに5年生が加わる体制へと発展した。57
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