1990年代を振り返り改めて思うのは、京大オプションに苦しめられた最大の要因は立命大のパスオフェンスにあり、立命大のパスオフェンスに苦しめられた最大の要因は京大のGangboneにある、ということである。特にどこのディフェンスもDBに求められる技量が急に増大し、DBの差がディフェンス力の差になった10年だったと思う。堀口 直親(1987年卒)たこと、人数の減ったDLine陣だが1対1ではとてもブロックされない破壊力があったこと、だと考える。 その後、立命館大学のパスオフェンスに対するに、それまではリード中心だったところ、ブリッツの頻度を高めたと思う。I-backからのランプレーも少ないわけではなかった。スクランブルの威力は強烈、逃げながら投げるセンスもあり、結果的にNickelのようなDBを増やすことはせず、ブリッツでプレッシャーをかけにいった。それはそれで奏功したと思う。ただ、戦術的にはごく一般的なものとなり、どこかで読まれていたかもしれない。6430年間の戦術の変遷ディフェンス(1991-1999)強烈なパッシングオフェンス 1991年から90年代中盤、後半に差し掛かるあたりまでの間、関西学生リーグを席巻したのは、実はパス力に優れたQBの存在だったように思う。後述する“Gangbone”は誰もが鮮烈な印象を受けたことで、記憶も今なお明確なのではないかと思う。しかし、京都大学、立命館大学にそれぞれ存在した超一流のパッシングQBに、ファイターズDは相当苦しめられたと思っている。 京都大学のパスアタックに対して、当時はまだ日大ショットガンに対してのみお目見えしていたNickelディフェンスを敷いたと聞く。当時の一般的なポジション構成は3-4-4または4-3-4で、それらの並び方は5-3-3または4-4-3が圧倒的に多かった。それを、構成は3-3-5、並び方は3-5-3だったり3-6-2だったり。80年代の日大戦では4-0-7という物凄い並び方もあったが、ランプレーの脅威もきわめて高く、そこまで極端なことはなかなかできなかったと思う。 隊形はOkieもあればEagleもあり、最初からコンテインする者を置かないディフェンスを敷いたのはこの頃からだと思う。この、当時ではきわめて画期的なディフェンスを構築させた背景には、当時2年生だったDBに成長著しい者が多かっGangboneとの闘い 一般には“Flexbone”と称される隊形はPersonnelで言えば30または31だが、あくまでも1-back隊形。それぞれの利点を活かしたオフェンス隊形である。当時は誰もが皆混乱させられたと思う。初お目見えは1995年の秋、その年の春はWishboneからオプションを展開していたが、それが布石だったのかとは後の祭であった。 34、当時はまだ名前を付けていなかったか…Jailと呼んだのはいつからか…52か44かという時代に、あるいは「フッ12
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